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【プロフィール】20代で乳がんの母と死別。病院看護師から児童福祉へ転職してブログ開設に至るまで

日常
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まずは自己紹介

みなと
みなと

みなとブログを運営しています(^O^)/普段は看護師として働いています。

名前:よしだみなと
職業:看護師、駆け出しブロガー
趣味:旅行/グルメ探索/節約
出身地:東京生まれ東京育ち
年齢:20代後半
ICU(集中治療室)で経験を積み、現在は児童福祉に関する仕事をしています。児童だけでなく職員の健康管理も行なっています。

え!?ICUから児童福祉!?なんでやねん、と思われそうですが、ご想像の通りICUという環境に病んでしまったのです。そんな私が当サイトを立ち上げるまでのお話に興味のある方はご覧ください(^-^)/

私が初めてブログを書いたのはアメーバブログでした。当時中学2年生、学校で空前絶後のアメーバピグブームだった時です。夢中でピグライフとブログをやっていました。

14歳:中学生で母が乳がんに。

そんな折、母が乳がんにかかります。当時14歳、母から直接がんになったと告げられた時のことはハッキリ覚えています。

お母さん、がんになっちゃった。
学校から帰ってたらボソッと言われ、一瞬聞き間違いかと思いました。「がんって病気のがん?」聞き返すと「うん、乳がん。

がん=治らない病気=死んじゃう、ここまで一瞬で思考が回り、「もう死んじゃうってこと?」と震えた声で聞いたのを覚えています。

「わかんない。手術しておっぱい切るんだって。がんのとこだけ取ってもらうか、全部取るかどうしよう。お母さんおっぱい無くなってもいい?
当時母は40代なりたて、胸を取るなんて大ショックだったと思います。兄弟の中でも長女でおしゃべりな私。兄弟全員ではなく1人の時にヘビーな質問をされて、幼いながらにちゃんと答えなきゃ、と思いました。
当たり前じゃん。おっぱい無くってもお母さんは可愛いから、お父さんも全部取ったほうがいいって言うと思う。

これがどの程度母の助けになったかはわかりませんが、抗がん剤治療で腫瘍を小さくした上で、乳房全摘+リンパ節郭清術を受けました。再発防止のためホルモン療法を開始、放射線治療も実施しました。

当時の将来の夢は小説を書くか…デザイナーとかも素敵!なんて中学生らしい妄想を抱いていたのですが、母が手術で入院した時に「看護師なんていいんじゃない?」と言われて初めて看護師の道を考えます。

ちなみに身近に医療職は誰もおらず、看護師=白衣の天使という間違ったイメージ(ゲフンゲフン)が根付いていたため、アリかなと思ってしまったのです。母の助けになれるなら、なんて想いもありました

実際、中学生にして乳がん患者の娘である私には、それなりに優しい看護師さんが多かった。
そして看護師の道を選んでいくわけです。

看護師になるまでの道のり

16歳:文理選択で致命的なミスを犯す

看護師を目指して進学する際、試験科目的には理系に分類されると思うのですが、願書に大量の志望動機を書かねばいけなかったり、小論文・面接はほぼ必須だったりと、え?これ文系では??という量の文章を作成します。文理という枠におさまっていない_:(´ཀ`」 ∠):

もともと国語だけは勉強しなくても採れるタイプの私。オードリー春日の遠い親戚なのかもしれません。しかし数学と物理はもう取り返しがつかないくらいできませんでした。

そのため文理選択の際、担任に「いや…あなたは文系じゃないかな…汗」と言われ、そうだよね、と深く考えずに文系に進んでしまったのです。

そして高校2年生になってから、試験科目に必要な授業が文系だと受けられないことに気づくのです。(アフォですね)

生物・化学は理系クラスの連中に混ざり、希望者のみの小論文クラスにも参加する。そして謎に日本史・世界史も受ける。(国立受けるんか?)
かなり大変だったので看護師目指す人は最初から理系を選びましょう。

18歳:母の乳がんが全身に転移し始める

受験目前、母の定期受診で腫瘍マーカーが上昇、多発骨転移が発覚します。頚椎・胸椎・腰椎・骨盤首から腰まで全部転移していました。
初めて乳がんと告げられた時から4年が経過していました。デススター再来。

ショックと同じくらいの衝撃が身を襲います。(手術も放射線もしたのに!おっぱいも全部取ったのに!手術した医師が取り残したのか!?)もはや怒りで人のせいにし始めます。

多発骨転移した頚椎・胸椎・腰椎・骨盤すべてに放射線療法を開始しました。

抗がん剤も開始しますが、ほどなく肺炎・胸水貯留・発疹などが出始め、すぐに中止となりました。

そんな中でも受験は待ってくれません
母は大変な状況でしたが、「受験の失敗を母のせいにするな」とブチ切れられながら、なんとか無事に進学を果たしました。フォース覚醒です。

看護師になる方法は沢山あるのでまとめてみました。クリックで拡大できます。
母の入院した病院の付属学校(図の一番右のルート)を受験し、一次で数Ⅰ・英語・国語・生物の4科目、二次で面接・小論文で合格

試験の時期が大学より大分早いですが、二次試験の結果はセンター試験後に出るのです。(なんでやねん

そのためセンター試験の準備と鬼のような文章量を書かされる大学願書も提出しなければならず大変でした。

19歳:母が膀胱出血で入院

晴れて希望の学校へ入学を果たし、入学式は母も参列できました。

看護学校で学び始めて数か月後、母が膀胱出血で入院。乳がん告知から5年経過していました。
抗がん剤は中止していましたが、多発骨転移に対して、全身に放射線を浴びており、腎臓や膀胱など他の臓器にも問題が起きたわけです。入院となり、内視鏡手術を行いました。
病院付属の学校に通っていたので、毎日授業が終わったらすぐにお見舞いに行けたのはすごく良かったです。行きすぎて喧嘩するほどでした。(どゆこと?

母が大変な時に能天気に学校の話をペラペラ話し、課題の多さに文句を言う私…母からしたら「ちゃんとやれ、クソガキ」という感じだったのでしょうか。

その後、母は生き延びる望みをかけて、放射線治療を続ける選択をしました。

この時私含めて家族は、「お母さんは強いから、治療したらまだまだ生きられるはず」と思っていました。自分達にそう言い聞かせていたのかもしれません。
母はまだ普通に会話が出来て、やることなすこと褒めたり叱ったりしてもらえていたのです。

ここまでなんと母はフルタイムで仕事を続けていました。「お仕事辞めないの?」なんて軽く声をかけることはありましたが、塾や私立高校に通わせてもらっている身でどこまで言っていいのか悩ましく…。膀胱出血を機にやっと休職したのでした。

20歳:看護学校2年目。本格的に地獄の実習が始まる。

実習が始まり、初日で看護師=白衣の天使ではないと気づかされます。看護師って、激こわい
この時まで本気で早く座学じゃなくて実習をしてみたい!と思っていたのですが、一瞬で座学に戻りたくなりました。

実習は3週間で1分野、これを急性期実習、回復期実習、高齢者実習、成人実習、小児、母性、精神…その他多数、ひたすらこなしていくのです。それぞれ、3週間ですよ。

みっちり睡眠不足と課題に追われる日々。今振り返ると、母を心配する気持ちが保てていなかった時期でした。「こんなに頑張っているんだから、遊びたい。羽を伸ばしたい。」という気持ちが強くて、家に帰る日が遅くなり、わがままになり…。女王のようにふるまっていました。

そんな中、母は別の抗がん剤治療を始めます。ものすごい疲労感がくるようになり、一日中座っているか、横になっている生活になりました。
両足がむくむくと膨れ、「痛い!歩けない。」とほとんど歩けず、「お腹が苦しい、気持ち悪い。」と身の置き所がなくなっていました。いわゆる下肢浮腫と腹部膨満感です。

そんな状態で、さすがの私も女王様ぶっている場合ではなく、家に帰ったら実習記録をほっぽって、母と他愛のない話をしながらひたすら足をマッサージしていました。

なにかしてあげたい。だけど、看護学校に通ってるのに、なにもできることが見つからない。

歯がゆくて死にそうでした。看護学の知識も、解剖生理学も学んだけど、今目の前にいる母に対して一番効果的なケアは何かわからないのです。

実習で看護師に注意されまくり、なにがやっていいことで、なにがやっちゃいけないのか、訳が分からなくなっていました。若干病み始めていたのかもしれません。

わからないから母に教科書を見せて一生懸命考えたことを話して姿勢を整えてみるのですが、「全然苦しい。全然楽じゃない。」と一蹴。生の患者の声はキツイものです。まあ、母に言われても素直に受け入れられるのでめげずに色々やりました。

あまりに辛そうなので「抗がん剤やめた方がいいんじゃない?」と聞いてみると、「でもこれやめたところで、どうするの。」と言われてなにも言い返せず。
とにかく体があちこち痛む母に、ひたすらさすってマッサージをして、「寒い」と言われれば湯たんぽであっためて、汗が出たら拭いて着替えを手伝う。それが立派なケアなのですが、当時の私はもっと根本的に解決したかったのです。看護師になれば、10の痛みを、0にできるもんだと思っていた。

母が会社を辞める

ある日、いつも通りさすってペラペラと話をしていると、母から「お母さん、会社辞めてもいい?」と急に聞かれました。トーンが普段と違うと感じました。マジトーン
いいよ。…もう十分頑張ったんじゃない?」と言うと、「…そうだよね。お母さん頑張ったよね。」とすごく嬉しそうに言われました。泣きそうに笑っていたのを覚えています。

後日、母の親戚から「みなとちゃんが辞めていいって言ったからお仕事辞めたってお母さん言ってたよ。」と言われて、びっくりしました。
母の本心はわかりませんが、働くのに限界を感じても辞められないと思っていたんだとしたら…退職する決意を後押しして良かった

乳がん告知から6年目でした。

21歳:看護学校3年目。増え続けるがん細胞と治療の副作用。

3年生になっても、代り映え無く毎日実習漬けの日々がスタート。

ところが進級してすぐ、母の腹膜播種水腎症が発覚します。

乳がん告知から7年経過していました。

血液検査で腎機能が悪化しており、精査の結果、おなかにがんが散らばっている(腹膜播種)と分かったのです。
水腎症は、放射線治療の副作用で腎臓と膀胱をつなぐ尿管が狭まって尿が逆流したため起きていました。

腹膜播種を伴うステージⅣ。残された余命はあと少しですよ、と突きつけられた気がしました。

尿が出せず、水腎症になると腰痛がひどくなります。痛みにうなされながら、腎瘻造設術(背中から腎臓に穴をあけて管を入れて尿を出す)を受けました。

腎瘻造設をして尿を出せるようになり、腰痛は少し改善しましたが、この管、めちゃくちゃ抜けやすい!なんせ、腎臓に穴をあけて管をぶっ刺して、軽く縫い付けてるだけなので。

現代の医療ってこんなもんなの!?と思ったものです。
脇腹にあいた穴から伸びた管(カテーテル)を採尿バッグにつなぎ、首から下げたポシェットに採尿バッグを入れて生活する。

カテーテルが抜けないように気を付けながらお風呂に入り、抜けないように洗って、目盛りを確認して、ガーゼで保護。寝る時の姿勢が悪いとカテーテルが折れ曲がって閉塞して、尿が脇腹の穴から漏れたり腰が痛くなったり不便すぎる…!!

なんとか気持ちをアゲるため、採尿バッグを入れるためのポシェットは、母が気に入ったものをいくつか買いました。

抜けたらすぐに病院へ行き、外来で再挿入。ただし、お風呂に入るのは夜なので、夜間帯に抜けたことに気づくと「専門がいないので対応できない」と断られることもありました。そうすると対応してくれる病院を探さないといけないのです。

電話して断られ、断られ…医者なのに、専門じゃないと再挿入もできないの??遅いせいで穴が塞がったら、また手術されるの??またもや医療者に嫌悪感がわきます。所詮他人だからどうでもいいんだろう。そんな気持ちになってきます。

がんは脳卒中や心臓病と違って、急に命にかかわる状態になるわけではありません。抗がん剤の副作用に苦しみながらも、基本末期まで普通に家で暮らせるのです。この頃、急に悲しくなって母と夜中まで語り明かしたり、一緒に寝たりすることが増えました

そして、ほどなくして検査で胸膜にもがんが散らばっている(胸膜播種と分かりました。腹膜播種もあるんだから、胸膜播種もあるだろう。もうあまりショックも受けず、ぼんやりと受け止めました。
少しは歩ける時があった母、だんだん下肢の浮腫が悪化して歩けなくなり、外に出る時も車いすになりました。

迫る国試。輸血で病状安定。

できる治療はすべて行った母。抗がん剤の副作用や骨転移の影響で骨髄抑制が出てきます。貧血がひどくなり、初めて輸血を行いました。

すごい良い!最近の中で一番調子がいい!!

輸血を終えた母は、なんだか別人のようにテンションが高く、輸血で他人の人格が乗り移ったんじゃないかと思うほどでした。初めから輸血で全部の血を入れ替えていたら治ったんじゃないか?な~んて思っちゃうほど、元気になったのです。

数か月おきくらいに輸血を実施。始めは効果絶大だった輸血も回を追うごとに効果は薄れていきました。
それでもこの時は比較的病状が安定しており、私も実習のこなし方が分かってきて、大変ながら一緒にいる時間を楽しむことができていました

怒涛の実習ラッシュを終え、卒論に取り組み始めると同時に国試が迫ってきます。卒論はもちろん、がん患者について取り上げました。やっとこさ書き終えたら2月の国試対策の日々です。

友人たちはグループで国試の勉強に励んでいましたが、母の体調が徐々に悪くなるのに伴い、私の精神も暗黒面に落ち孤立して勉強するようになりました。その頃に疎遠になった友達も何人かいました。

国試に受かって看護師になった私。同級生で落ちた子に対して、そんなに大変じゃないのに落ちるなんて、というまさにパルパティーン並みの真っ黒い精神で思っちゃう状態でした。

総合病院へ新卒入社

22歳:外部研修中に母が臨死体験

その後、入社が決まって外部研修(泊まり込み)に行くことになります。乳がん告知から8年目、この研修期間中に母の体調が急激に悪化して、精神状態がおかしくなりました。

今でも思い出すと事情を話して免除してもらえばよかったと後悔が押し寄せます。
ただ、入社して最初の研修に出ないのはマズイだろうという思いと、母の介護疲れ、そして厳しい父から少しでも離れられるなら行きたいという思いもあったのです。

研修期間中、母からの電話に出ると「お母さん全部わかったの!1回死んだの!」と興奮ぎみにまくしたてられました。

どうやら臨死体験をして超能力を得た、と言うのです。よくある話のように、自分の死んだ両親に会ったと。まだ来るなと言われて戻ってきたと言うのです。

私もスピリチュアルな占いは嫌いではないので、本当にそうなんだとしたら、もっと長生きしてくれるなら嬉しい、おじいちゃんおばあちゃんありがとう、と淡い期待をいだきました。

帰宅したら悪夢が褥瘡(じょくそう:床ずれ)ができてしまっていたのです。褥瘡のおそろしさは座学で叩きこまれ、寝たきりの母をこまめに除圧していたのですが、1週間ぶりに見た仙骨に赤みが。

腐っていくお尻と干からびる体

え!!なんで発赤ができてるの!!!
研修で出かける前に除圧だけはしてね、と家族にお願いしていたのに…

そこからは除圧をしても日を追うごとにどんどん赤みは広がって、中心が黒くなったと思ったら穴が空いて、膿を撒き散らしながら広がっていきました。デススターの砲撃を受けた惑星と同じ末路を辿ったのです。

毎日褥瘡のケアをして、悪化してからは軟膏とガーゼ。けど寝たきりだとずれていく。外来で定期的にフォローされても栄養不足だし一向に治らない見た目もひどいですが臭いもきついのです。

母はどんどん干からびるようにやせていき(がん悪液質)、頬やお尻・腕が老婆のようにホッソリしているのに、お腹は腹水でパンパン足は浮腫でブニブニに膨らんでいきました。腹膜播種になると炎症を起こして腹水がたまるらしいです。それに加えて栄養不足

アフリカの飢餓で苦しむ子どもたちの写真を見たことがあるかと思いますが、全身痩せているのにお腹だけポッコリしているんですよね。アレってタンパク質不足で血液中の水分が血管外に漏れ出て、お腹に水が溜まっている(腹水)んです。それと同じ状態なわけです。

腹水が溜まりすぎて苦しい。」と訴え、針を刺して抜いてもらったのですが、1〜2Lとか普通に出てくるので、実際はもっと溜まっているんだと思います。お腹に赤ちゃんがいるようなものです。抜いた後は比較的呼吸が楽に。この時も、現代医療の限界を感じて悲しくなりました。

ちなみに針を刺した穴からちょろちょろ汁が出続けて布をあてておくのですが、量が多くて油断するとパジャマが水浸しになります。それを拭いて着替えなきゃいけないのは大変でした。

そうしてバタバタしながら母が入院していた病院に新卒で入社を果たした私。
もし入院になっても仕事の合間に様子を見に行けるし、万が一救急搬送されても私がいるところに来てくれるなら安心だわ、なんて思っていました。

しかし…配属された場所はICU(集中治療室)でした。

え、、、ちょ待てよ、、ワイ、希望にICUって書いてなーい!!!

他の病院はどうか知りませんが、就職にあたって希望の科を第3希望まで提出していたのです。
医師は希望の科を選べますが、看護師はもちろん選べません。(それに関しては別にいい)
たださ、、、ICUに行くかどうかは話が別じゃない?命の儚さがケタ違いですやん。なんなら心臓止まってる人が心臓マッサージされながら運ばれてくるんだで?

新卒で【希望を出していない】←ここ重要、同期のICU希望者を差し置いて配属され、毎日注意を受けながら学ぶ日々。心電図や人工呼吸器の看護なんて国試にほぼ出てきませんが、臨床にいくと当たり前のように求められます。「この波形何か分かる?家で調べてきてね。仕事をしてるのに課題を出されるという日々。
同期入社した友人達には、「課題なんて無いよ〜大変だね〜。」と言われる始末。心電図も人工呼吸器もない世界で仕事している。同じ給料なのに格差を感じました。
それでも前向きに、ICUに配属されたのは理由があるはず!成長できる!と思って頑張りました。

家に帰ったら母の介護。出された課題に取り組むころには、日勤の疲労と慣れない環境でヘトヘトになっていました。調べ始めても全然分からず、気づいたらガクンガクンに震えながら寝てしまい、翌日「わかんないのなんで?」と詰められます。机で夜中まで寝てしまうので疲れも取れず、フォースの力も弱まっていくのでした。

外来でブチギレ事件

がんの全身転移で体中の痛みに加えて、お腹も重くて立ち上がるのもままならなくなった母。お尻の貼り替えのために横になるのも辛くてできず、立っているのも辛くてできず
外来受診時、処置の手際の悪さにブチ切れる事件とか起こす始末でした。ICUで勤務していた私の耳に入るくらいだったので相当ブチ切れたんだと思います。

家で母に何があったのかと聞くと、
そもそもお尻を見られるのも嫌なんだ!治せもしないのにパシャパシャ写真撮って!時間かかりすぎ!こっちは立てないって言ってんのに!!」とぷんぷんに怒っていました。
「そりゃ、キレちゃってもしょうがないわ。」とにかく寄り添って、職場では「なんか母がすいません〜」と形だけ謝罪。社会人として求められるパフォーマンスは意外とストレスでした。

毎日吐いている母。毎日ゲロを片付ける私。

がんになった人って、末期になると食事が食べられないせいか頬がこけていくんです。先日亡くなった経済アナリストの森永卓郎さん、最期までメディア出演をされていましたが、顔つきが亡くなる直前の母とそっくり。がんで亡くなる方は最後顔がこけて目つきに特徴がある風貌になるんだなと思います。

母の体調は順調に悪化の一途を辿り、食事を全く受けつけなくなりました。食べると吐いてしまうのです。外出時にはゲボ処理袋を肌身離さず持ち歩き、いつでも吐けるようにしていました。

夜寝ている時に嘔吐すると悲惨です。シーツ、パジャマ、すべて吐物まみれ。
撥水性のシーツ、寝るときは大きいエプロンをしていましたが、カバーしきれません。

夜の介護は父がメインでしたが、「わー!大丈夫!?」という大声や、ドス!ドス!という足音で目が覚めます。ゲボの処理をして着替えさせるのです。

多いと一晩で4回とか吐きます。その都度掃除です。

かなりストレスだったのか、入社2か月も経たないうちに、39度の高熱を出したワタクシ。
それまでの人生でほぼ発熱したことがなかったので、自分で自分にビックリ。体調が悪くてふらふらになりながら、初日に教えられた病棟直通電話に連絡を入れました。

すると、まさかの「この時間にかけるな」と怒られました。いつもの出勤時間の30分前に電話して怒られるのは予想外でしたが、朝の忙しい時間に、夜勤の看護師の仕事を増やすなということだったようです。電話するなら結構ギリギリでいいことを学んだのでした。
他にも、同時入社の新卒の子と差がついてしまうという思いもあってかなり追い詰められました。

ただ、自分から母のことを職場の先輩たちに言うことはありませんでした。
そんなことを入社したばかりのペーペーが言ったところで、世の中そんな甘くないんだよ、と思われそうで怖かったのです。言い訳にしたくないという思いもありました。
仕事ができなくて詰められるなんて日常茶飯事でしたが、疲労でクタクタなおかげもあって、だんだん怒られても右から左に流れるようになっていくのでした。後半は「調べたんですけど見つけられませんでした…。」とかいけしゃあしゃあと言えるくらいに成長することができました。

そんなことより家での問題の方が大きかったのです。着実に死に向かっていた母の強い希望は、「毎日あったかいお風呂に入りたい。
その希望は娘で看護師である私がやらねば誰がやるのだ、という意地のような思いで、ほぼ毎日お風呂に入れていました。

「お風呂に入れる」と一言で言っても大変です。浴室暖房をつけて、褥瘡の処置の準備をして、パジャマの用意をして、車椅子にタオルをセットして…熱い浴室で汗だくになりながら体を洗ってあげるのです。

寒いだの遅いだの文句が多くて苛立つこともありますが、「気持ちよかった、ありがとね」と、頬がこけて今にも消えそうな顔で言われると、心臓がキュッとして「別にいいよ。」と答えるのが精一杯でした。

そして遂に

忙しすぎる毎日は急に終わりを迎えました。

午前5時ごろの日が上り始めた時。母の血圧が測れない、と家族に起こされたのです。

その日は日勤で、今日は早いのに、眠すぎて死にそうなのに、、という気持ちで、「脈は測れるんじゃない?血圧計の巻き方が間違ってるんじゃない…?」とやっと返事をして眠りました。

すぐに「本当に測れない、息もしてない。」と起こされました。
この時点で、血圧も測れないなんて!とイライラしながら母の元へ向かいました。まさか死んでいるとは思わず。

見た瞬間、(あ、これは死んでるかも)と思いました。
いつも苦しい苦しいと上下していた胸は全く動いておらず、眉間のしわも薄く、パクパクした口呼吸も止まっていました。

お母さん。起きて。
肩を揺さぶっても目は開かず、脈を測っても触れず、胸に耳を当てても音はしませんでした。

いつか来ると思っていた日が、まさか今日なんて

とりあえず職場に連絡を入れないと。。あ、電話する時間は気をつけないといけないんだった。

そんなボヤーっとした頭で、とりあえず動かない母の横にひっついて、泣きながら眠気に負けて眠りました。

朝を迎え、出勤時間直前に職場へ電話。師長さんから忌引きの流れを聞きましたがあまり覚えておらず、とりあえず1週間休めることだけ理解しました。母が死んでも、たった1週間しか仕事は休めないのか…。

そこから葬式の準備に入ります。写真を引っ張り出して、選んで。写真の中の元気な頃の母は、ふっくらした頬で綺麗でした。たった2年で、こんな干からびたんだ。悲しさより、不思議な気持ちでした。

何度も何度も死体の母にキスをして、火葬したくない、このまま保管したいと思いながら葬式の日を迎えました。

お経をあげている間はずーっと涙が出ていましたが、食事会では親戚がたくさんいる前でメソメソしてるわけにいかない。親戚たちが心配してくる視線を鬱陶しく感じました。
幼い親戚たちは、なにがなんだかよく分かっておらず、無邪気に話しかけてきます。二重人格のように「元気な私」を発動し、相手をしました。

焼かれて残った骨は、なんだか少ないなと感じました。
母とまだ分かれる気持ちがついておらず、遺骨ペンダントに少し骨を移して、毎日肌身離さず生活して、時々話しかけたりしていました。フォースと一体化したと信じて…。

仕事へ

先輩から忌引きのお礼を求められる

一週間ぶりに仕事復帰。「お休みありがとうございました。」と師長さんに挨拶を済ませると、心配してくれつつ忌引きの手続きのため看護部に行ってくださいと言われます。

看護部に行くと用紙を渡され、副看護部長に「忌引き理由には母死亡のためって書いてください。」と事務的に言われました。(なんだかな…)すごいモヤモヤしながら、自分でその文字を書きました。(近しい人が亡くなって間もないのに、わざわざ死亡したことを書かせる必要性とは…?忌引きって死亡したからとるんですけど…。)言われた通りさっと書いてすぐに退散。さて仕事。

休み明けは「おやすみありがとうございました。」と、日勤で来た看護師と、夕方夜勤で来た看護師それぞれに声かけて…と大変労力を使います。誰か1人に声をかけ忘れようもんならそれはそれは大変なことになります。「新人なのに挨拶しない子」扱いです。
しかも看護師は常に同じ場所に居るわけではなく、出勤してすぐ点滴の準備をしたり、集中してカルテを確認したりと、めちゃくちゃ声をかけづらい状態。挨拶無視なんて日常茶飯事です。ただし新人が挨拶に気づかないと「挨拶返さない子」扱いです。

ICUに配属されて1ヶ月で忌引きに入った私。何人かの先輩に「大丈夫?」と聞かれても「大丈夫です。ありがとうございます。」しか返せませんでした。愛想のない、なんだか不思議な子だったと思います。正直、今まで通りほっといて欲しかった亡くなってから心配されても(笑)という感じでした。プライドと悲しみと怒りでぐちゃぐちゃでした。

仕事復帰して数日後、先輩から「忌引きをとったんだからお菓子の一つでも差し入れた方がいい。」と言われました。これを言われて私はムッとしました。まだ戦力外の身だったので、むしろ私が休んでたおかげで教育の手間が省けて良かっただろ、くらいに思ったのです。(クズすぎる)
もしかしたら、私の職場での立場を心配して言ってくれたのかもしれないのに…。
円満な社会人生活を送るためにも、お菓子の差し入れをすればよかった…。お菓子ひとつで職場が和むなら安いもんですよね。

結局差し入れはしないで、普通に仕事していました。反抗期小僧です。

ICU3年目で退職を決意

ICUで経験を積み、それなりに重症の患者を受け持つようになりました。

この頃、夜勤を月5〜6回していました。病院の看護師ってキツイです。
2年目の後半からは膀胱炎と不眠に悩まされるようになり、生理周期も乱れるようになりました。顔面ニキビも星の数ほどできました。ただでさえ悪い性格が更に悪くなり、それに自覚もありました。

そしてこの年に新型コロナウイルス感染症が上陸。3年目で「未婚、子なし、一人暮らし」の私は、格好の新型コロナ対応看護師でした。お局から「明日、担当にしといたから。」とマリモッコリのような目つきで言われたのは忘れません。
N95マスクをつけて、あの宇宙服を着て、バイタルを測り、体を拭いて、配膳していました。意外と感染しないもので、ちゃんと防御できるもんだな〜と思いました。

後から知ったのですが、「私は新型コロナ患者は見れません!家族がいるんで!」とか言っちゃう看護師、結構いたみたいです。仕事なのにそういうの言っていいんだ。すごい。

社会人3年目、このまま歳をとっていくのかしら…もっと別の働き方をしてみたい!と思うようになり、転職を決意。看護師転職業界大手の転職サイトに登録しました。あまり期待はしていなかったのですが、担当の方がとても良い方で、しっかり話を聞いて色々な働き方を提示してくれました。

希望は

  • 夜勤なし
  • 土日休み
  • あまり給料下げたくない

この条件で探すと、訪問看護師か治験をすすめられます。しかし担当の方から、募集枠は少ないけれど、児童福祉関連の仕事も存在すると紹介されます。しかも社宅が安い!
元々子どもが大好きな私。ICUで治療の末に亡くなる方をみてきて、その前段階の健康を支える仕事をしたいという思いが強くあり、児童福祉施設へ転職するのでした。

ブログを始める

転職先は天国

ほぼ定時に上がれる生活になり、膀胱炎とは縁がなくなりました。ニキビは減り、生理もちゃんと来るようになりました。
仕事中、普通に飲み物が飲める、トイレに行ける、小腹が空いたらちょこっとお菓子を口に入れることもできる…。前職とのギャップがすごかったです。

慣れない保護者対応は大変でしたが、毎日ピュアな子どもたちと触れ合うのは楽しくて、癒されて、これでお給料もらえるなんて幸せすぎる…!と感動しました。
GWや年末年始など、まとまった休みがしっかりあるし、有給も文句を言われずに皆で取り合う優しい世界…社会人になってから初めて3泊を超える旅行に行けました。

あっという間に時が経ち、「もうすぐ30歳。何か新しいことをしてみたいな…。」と思い始めたワタクシ。

そうしてブログ開設に至る

旅行の他にもグルメ探索が大好き。
撮り溜めた旅行やグルメをお披露目したく、どうするか考えました。

そういえば、昔アメブロやってた時は楽しかったな。そしてブログを開設しようと思い立ちました。
ブログ開設するって意外と手間がかかりますね。YouTubeの力がなければ挫折していたかもしれません。YouTuberの方々、ありがとう(^∇^)

まだやり始めたばかり、このサイトがどうなっていくのか…私はどうなっていくのか…いまはまだ…混沌の中…!


当時の気持ちを思い出しながら赤裸々に書いてみました。
ここまで長文を読んでくださった方、ありがとうございます。

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